大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和44年(あ)893号 判決

主文

本件上告を棄却する。

理由

弁護人土田嘉平の上告趣意第一点は、憲法二一条違反をいうが、高知県屋外広告物取締条例三条、四条が憲法二一条に違反しないことは、当裁判所昭和四一年(あ)第五三六号同四三年一二月一八日大法廷判決(刑集二二巻一三号一五四九頁)の趣旨に徴して明らかであるから、これと同旨の原判決の判断は相当である。所論は理由がない。同第二点は、単なる法令違反の主張であつて、適法な上告理由にあたらない。

よつて、刑訴法四〇八条により、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。(松田二郎 入江俊郎 岩田誠 大隈健一郎)

弁護人土田嘉平の上告趣意

第一点 憲法第二一条の解釈適用の誤り、

原判決は、高知県屋外広告物取締条例三条および四条は憲法二一条に違反して無効であるとの弁護人の主張を排斥し、違反しないとしたが、これは憲法二一条の解釈適用を誤つたものである。

一、原判決の要旨

原判決は、この点について「本件条例は、「屋外広告物法にもとずき高知県における美観風致を維持し、公衆に対する危害を防止する目的から制定され、本件条例三条、四条により屋外広告物の表示の場所、方法およびこれを掲出する物件の設置等について必要な規制をしているのであつて、もとより表現の自由は、民主社会において最も重要な権利の一であり、ビラなど広告物の表示がその重要な手段であるといわなければならないが、右権利も社会の中で行使される以上、無制限にその行使が許されるものではなく、前記の程度の条例による規制は公共の福祉のため表現の自由に対し許された必要かつ合理的な制限と解すべきである」と判断している。

二、弁護人の主張

(一) 言論表現の自由の現代的課題

憲法二一条が保障する言論、表現の自由は近代市民社会の基本的な構成原理であり、それは民主主義の実現ならびに発展のために欠くことのできない、まさに民主主義の生命線であるといつてよい。このことは原判決も「表現の自由は民主社会の最も重要な権利の一である」として、承認しているところである。

そして、この言論、表現の自由は、国家の不介入のもとでのいわゆる「思想の自由市場」の成立を前提として、具体的に意味をもつものであつた。

すなわち、市民はだれでも、この思想、言論の自由市場に登場しあるいはその送り手として自由にみずからの思想、信条を発表しあるいはその受け手として他人のそれを自由に聞くことができるのであり、国家はこの自由市場の形成とそれへの自由な登場をいつさい妨げてはならないという点にその核心的意義があつた。

そういう意味において言論、表現の自由は性質上、本来的にレッセ・フエールを旨としている。

しかしながら、現代の言論・表現の自由の存在状況はそうではない。

すなわち、「政治的自由は、一世紀前に経済的自由がそうであつたように、十字路に立つている。それに対する脅威は、世論形成の権力が対価を支払う能力をもつた少数者の手に集中されていることである。

経済の領域におけると同様、政治的自由の極大値は政治的平等の最適値と一致しない。」(K・レーヴエンシユタイン著、阿部哉他訳「現代憲法論」四二〇頁)。

「マス・メデイア、なかんずく電波メデイアが異常に発達したこと、資本主義社会秩序のもとでは、このマス・メデイアを自由にしうるものは『それに対して最高の対価を支払うことのできる』少数者にかぎられること、しかも『マス・メデイアを支配する者が選挙民を支配し、選挙民を支配する者が政治過程を支配する』こと、このような古典的立憲民主制のもとでは夢想もできなかつた新しい事態によつて、思想、表現の自由ないし政治的自由がある種の危機に直面していることは、多かれ少かれ各国に共通してみられる最近の顕著な一つの動向だ」ということができる。(以上、東大社会科学研究所編「基本的人権4」所収、芦部信喜論文「現代における言論、出版の自由」一七七頁以下)

日本においてもこの状況は全く一致する。(この点については第一審弁護人土田嘉平の弁論要旨六〇頁以下の具体的事例を参照されたい)

このような思想、表現の自由市場が全く閉ざされた状況の下で、とくに本件にそくして現代的な課題となつているのは、言論市場で受け手の立場に立つ勤労人民を送り手の側に立たせるためのあらたな表現手段としての大衆行動の権利をいかに実質的に保障していくかということである。

以上のような、現実の実際的な要請、課題に即して考察するとき原判決の態度はこれらの課題にまともに応えたものとは到底いえないばかりか、憲法上の言論、表現の自由を形骸化し、その結果これらの自由を易々と侵害する道をひらいたものといわざるをえず、憲法二一条の解釈適用を誤つているといわねばならない。

以下、この点について論述する。

(二) 言論、表現の自由とビラ貼りの権利

言論、表現の自由は、前述のとおり民主主義の生命線として人権のカタログの中で優越的地位を占めるものである。

そして前述のとおり、思想、表現の自由市場が一にぎりの少数者(国家、独占資本等)に握られてしまつている現代のマス・メデイア状況の下で、ビラを貼る、配るという行為は、金もなく広大な宣伝方法(メデイア)をもたない大多数の勤労人民にとつて、大量迅速な表現、伝達手段として唯一、最後のものであるといつてよい。

これを奪われるならば、文字どおり日本の大多数者は表現の自由を封殺されるにひとしいのである。

従つて、ビラ貼り行動は、勤労人民の立場においては、現代における最も重要な自由権としての意味をもつているのであり、この自由権は、単に国家から介入されないというのみならず、それを実現するために必要な国家的保障を要求しうる内容をふくまなければ、今やそれは無意味となつているのである。

それは一つの積極的な権利、すなわちビラ貼りの権利として保障されるべきである。

(三) 美観風致は表現の自由の規制概念たりうるか。

高知県屋外広告物取締条例(以下「県条例」と略称する)一条及び三条、四条の規定の内容からみて、県条例の保護しようとしている法益が高知県における美観風致の維持にあることは原判決認定のとおりである(公衆に対する危害防止という目的は本件ビラ貼りには直接かかわりはないので、とくに論議の必要はないと思料する)。

一般に表現の自由を制約する原理は、それを合理化する抽象的な基準の問題であるよりは、むしろ具体的な現実の中で真に合理的と認められるものたることを要する。

それは、いかに精巧なものであつても、抽象的に構成されてはならないのである。しかも、前述のとおり権利として積極的に保障されるべき内容をもつにいたつているビラ貼り活動を制約するものとしての基準は、すぐれて具体的な内容をもつものでなければならない。

ところで、県条例にいう美観風致とは何なのか。それはいつたい言論、表現の自由の制約概念としてどのような具体的内容を包含しているものであるのか。

そもそも美観風致とは、「公共の福祉」の内容たりうるのであろうか。かりに、美観風致が制約概念たりうるとしても、その基準はどこにあるのか、無制限なのか、何らかの基準線があるのか。

以上、要するに原判決は、本件ビラ貼り活動を規制する概念としての「美観風致」について、何らの説明もしていないのである。

しかし、本件において、ビラ貼り活動と対立、衝突するものが美観風致であることは間違いない。

しかも原判決はビラ貼り活動が表現の自由の「重要な手段である」ことも認めている。

それでは、それと対立する美観風致とは何なのか、どのように重要なものなのか。原判決は答えていないのである。

「美観風致の維持のために許された必要かつ合理的な制限と解すべきである」という全く抽象的な、そしてひとつも精巧ですらない。全くぶつきらぼうな説明でもつて終つているのである。

思うに、「美観風致」とは人々が集団生活を営むうえで、互いに美しい自然環境の中で生活したいとねがうその生活利益を反映して生じた一種の自然状態とでもいうべきものであろう。

或は、その自然状態を維持するための生活利益といつてもよいであろう。

それは、一種の社会的な利益といえるであろうが、基本的人権の相互調整という原理(宮沢俊義著「日本国憲法コンメンタール」二〇一頁参照)から照らすならば、美観風致がもたらす国民の基本的人権保障とのかかわりあいにおいては、まことに漠然かつ抽象的であり、美観風致の維持の限度、基準というものはまことにあいまいならざるをえないのである。(空気を美しくしておきたいという生活利益の方がまだしも具体的であり、その基準の設定も可能である)しかも、そのようなあいまいな生活利益の保護によつて一方では民主主義の生命線ともいえる言論、表現の自由が制限されるというにあつては、美観風致とはまことに危険きわまりない概念といわざるをえない。

その意味で、公けの場所におけるビラ等の配布を禁止する条例を違憲にしたアメリカの判例、シユナイダー対アーヴイングトン(Schneider v. Irvington. 308 U. S. 147.1936)は参考に値する。

「法律による権利の縮減が主張されるすべての事件において、裁判所は攻撃された立法の効果を検査するのに機敏であるべきである。公共の便宜に属する事項にかんする単なる議会の好みまたは信念でも、他の(つまり言論の自由以外の)個人的活動に向けられた規制なら、十分支持することは可能であるが、民主的制度の維持にとつてきわめて重要な権利の行使を小さくするようなことを正当化するには、不十分である。したがつて、事件が起これば、もろもろの状況を衡量し、権利の自由な享受を規制することを支持するために提出されたもろもろの理由の実体を評価するという、微妙で困難な仕事が裁判所にふりかかつてくる。……われわれは道路を清潔にかつ見栄えよく保つておくという目的は、人が公道で、進んで受け取ろうとする人に正当に印刷物を手渡すことを禁止する条例を正当化するには不十分であると信しる。そのような配布の間接的な結果として道路を清掃し管理するにあたり、市当局に課せられる負担は、言論出版の自由を憲法上保障していることに帰因するのである」(前掲芦部論文二三三頁以下参照)

まさに、街路の電柱を掃除し管理するにあたり、高知県に課せられる負担は言論、表現の自由を憲法上保障していることに帰因するのである、といつてよい。

これを、いうところの「明白で現在する危険」の理論によつてみるならば「ある禁止もしくは制限さるべき言論が、近い将来実質的害悪を惹起する蓋然性が明白であって、その害悪が時間的に緊急切迫しているとともに重大であり、しかも禁止もしくは制限がその悪害を避けるのに絶対必要な(すなわち制限の目的に合理的実質的関係をもつと同時に適切な)手段である場合」に限つて言論の制限が正当化されると解すべきである。(前掲芦部論文二一九頁)

してみると、美観風致の維持という一般的、抽象的、概括的な利益概念でもつて、言論、表現の自由を制約することは、とうてい許さるべきではないといわねばならない。

すなわち、原判決も認めているとおり、本件のビラ貼り行為の行われた当時、帯屋町通りの道路付近の電柱にはかなり多くの無許可ビラ、ポスター類が乱雑に貼付されていたのであり、かつ重要なことは、当時(そして現在もなおそうであるが)高知県の本条例実施の状況は、いわゆる巻きつけ看板については(それはすべて商業広告であつて、通常一年を許可期間として年々更新されている。県条例三条二項、一六条)旧態依然として電柱に掲示されているのであつて、それらが、はたして街路の美観風致に支障がないといえるかどうか、きわめて疑わしい状態にあるのである。

このような街路の状況の下で、表現の自由としての電柱に対するビラ貼り行為がいつたい、いかなる実質的害悪を発生せしめ、かつ、その害悪が緊急切迫しているといえるのであろうか。

以上、美観風致の維持という概念(ないし法益)は、言論、表現の自由を制約しうる基準ないし原理たりうるものではないこと明白であるといわねばならない。

(四) 言論、表現の自由の規制手続と県条例の違憲性

前述のとおり、美観風致なる概念は何ら表現の自由を規制しうる基準ないし原理たりうるものでないのであるが、かりに百歩を譲つて、地域社会の美観風致の維持という見地から一定の規制が必要だとしても、表現の自由の要請と、地域社会の美観風致維持の要請とが、法の規制の上でどのように調整され、また、法や条例の解釈において、どのように配慮されているかが検討されなければならない。

これを県条例三条、四条についてみるに、三条所定の風致地区、美観地区あるいは四条所定の重要文化財、又は国宝建造物並に指定又は仮指定を受けた史跡、名勝、天然記念物及びこれを含む区域、古墳、墓地、火葬場、銅像、記念碑等は、いづれも美そのものの表象として、あるいは美観に奉仕する地域、区域又は場所あるいは物件として、あるものは付近一帯の自然美と調和して一体の景観を形成するものとして、みることもできる。

従つて、これらに対するビラ貼りを知事の許可にかかわらしめることは理由のないことではあるまい。

しかしながら、官公署、学校、図書館、公衆便所、橋りよう、街灯柱、電柱及び送電塔はその存在理由が少なくとも美そのもの表象あるいは美観の維持に奉仕するものとはとうていいえない。

とくに、電柱及び送電塔、公衆便所などは、存在そのものが美観とは全く関係がない。

関係がないにも拘らず、県条例四条は原則的にこれらの物件に対して、ビラ貼りを禁止し、僅かに同条但書において知事の許可のあつた時は例外的にビラ貼りをみとめることになつている。

しかしながら、電柱や公衆便所を重要文化財や国宝物と同列視して、これへのビラ貼りをほとんど絶対的かつ、全面的に禁止しなければ社会公共の美観風致を維持しえないとする合理的根担を見出すことはとうてい不可能である。しかも、前述のとおり、一方において巻きつけ看板(商業広告看板)を継続的に掲示を許している事態に徴するならば、ますます不可解といわねばならない。

本件の如く一定の政治的意見を表明する表現の自由としてのビラ貼りの目的が、たんにビラを貼ることにあるのでなく、それを貼ることによつてビラに表示された特定の意思や意見或は要求等を広く公衆に知らしめ、それらを共通の意思や意見或は要求に組織していくことにある以上、公衆の目にふれ易い場所を選んで貼られることは当然であり、他面、電柱、公衆便所等は少なくとも美そのものを表象して或いは美観風致の維持に奉仕するために設置されたものでないことも明らかである。

そうだとすれば、公衆が通行しその視線にふれる道路上に存在する以上、電柱が思想を表現する場の一つとして利用されることは当然であり、それは社会的に相当な行為として許されてよいといわねばならない。

しかるに、県条例四条第五号は電柱について、同条第四号は公衆便所、学校、図書館等についてビラを貼ることを原則的に禁止しているのは、憲法上、もつとも重要な人権の一つである言論、表現の自由の保障に対する重大な侵害であるといわねばならない。

もつとも、同条本文但書には「美観風致を維持するのに支障がないと認められる場合において、知事の許可を受けた時は、この限りでない」と例外的に許可制をしいているが、岩崎健男証言にも明らかなように「条例第四条所定の物件には貼つてはいかんという条件をつけて許可している」(二四五丁)というのであるから実際的には四条所定の物件については、全面的にビラ貼りが禁止されているといつてよい。

たしかに「美観風致の維持に支障がない場合」といつても、何が具体的に美観風致に支障をきたすのか、前述のとおりその概念自体きわめてあいまいかつ抽象的であるのだから、容易に判定しうるものではなく、実際の適用においては、右岩崎証言の如く四条本文但書に適用する余地が生じなくなるのはけだし当然の帰結というべきである。

しかも、県条例による表現の自由の規制手続として、条例上は知事の許可を受けることになつているが、右許可申請手続等の一切が高知県土木事務所の所管事項とされ、現実には右土木事務所の一係官によつて右許可申請にかかる広告物を審査し、許可、不許可を決定するという実情にてらすならば、まさに、行政官庁の末端の一職員によつて民主主義の生命線ともいうべき、表現の自由が制約、規制されるというまことに重大な事態を、県条例は生来することになるのである。

前述二の(二)のとおり、現代の思想、表現の自由市場が全く一にぎりの少数者の手に閉ざされている状況の下で、表現の自由権は、今や、それを実現するために必要な国家的保障を要求しうる内容をふくむものとして把握されなければならぬのである。

これを本件に即してみるならば、むしろ高知県は勤労人民の表現の自由の手段としてビラ貼り活動を積極的に促進せしめるべき立場にあるといわねばならぬ。

すなわち、勤労人民の政治的意見の表明としてのビラ貼り活動に対して、高知県は県条例を適用すべきでなく、電柱その他公衆の目にふれる場所を県民のビラ貼り活動に積極的に提供すべき責務を有している。

かりに、電柱その他四条所定の物件へのビラ貼り禁止がいうところの美観風致の維持に不可欠であるという他の何らかの具体的必要があるとするならば、高知県は、県民のたあに何らかの適切な掲示場所をもうけるべきである。

しかるに、高知県において、そのような措置がとられていないことは公知の事実である。

以上によつて明らかなとおり、県条例は、結局において県民のビラ貼りによる表現の自由を全面的に禁止するという結果を生ぜしめるものであり、憲法二一条に違反するものといわねばならない。

原判決は、以上の点において憲法二一条の解釈適用を誤つたものであつて破棄されなければならない。〈以下略〉

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